苦悩する神 その二

2015年10月発行

  神仏習合として最初に文献に出てくるのは、

敦賀の気比神宮です。二番目が、若狭の神宮寺です。

それは次のような記述で始まります。

「(天長)六(八二九)年三月乙未。若狭国比古神。

和朝臣宅繼を以て、神主を為す宅繼辞云」


 この文献は、『類従国史後編』で、巻第百八十・仏道部七・神宮寺にあります。


 これによりますと、養老年中(七一七~七二三)に、

疫病が蔓延し、病死者が多数出、また旱魃で、穀物が稔らなかった。

宅繼の曽祖(若狭比古神の直孫)赤麿が、仏道に帰心し、

身深山を練っていると、若狭比古神が、これを感じいり、

人に化して次のように語る。

此の地、是我が住処。我神身を稟して、苦悩甚だ深し。

仏法に帰依して救われたいと思う、と。赤麿は、ただちに道場を建て、

仏像を造った。是を神願寺といい、比古神のために修行をした。

やがて、穀物は豊作となり、疫病で死ぬ人もなくなった。そう記録されています。


 疫病による災難、旱魃による不作。

これが、若狭比古神の悩みであったようです。

その悩みを、孫の赤麿が代わりを果たし、

神願寺を建立して救ったのでした。神願寺は、神宮寺となります。


 当時の文献を見る限り、神と人は同時に存在しています。

言い換えると、神代の時代があり、人の時代が後に生まれるというのではありません。

神と人が混在する。日本人は、誠に不思議な文化を持っています。

この感覚が、神仏習合も可能にしたのでしょう。    

若狭文学会会員 鈴木 治