『後瀬山』は、JR小浜駅後方の標高百六十七メートルの小さい山で、
市街地に低い屏風を立てたように立っている。
いたって殺風景で平凡な山である。
しかし後瀬山は『後』という言葉をいい出すための助詞 枕詞として
古代中世まで文学では相当用いられている。
万葉集にも大伴家持が二十代の頃恋人で、
のち正妻にした坂上大嬢との間に交わした歌がある。
『かにかくに 人はいふとも若狭路の 後瀬の山の 後は思はむ君』
『後瀬山 後もあはむと おもへこそ 死ぬべきものを 今日までも生けれ』
この二首の歌は家持と大嬢がとりかわした一連の相聞歌である。
~歌意~
『とやかく人はいっても、若狭に行く道にある後瀬山ではないが、
後の世までもあなたのことを思っています』
『後々にも逢おうと思えばこそ、死ぬはずなのを今日まで生きています』
家持が越中守に任ぜられ、若狭を通って着任するときに大嬢が
はるかに家持を偲んで切々の愛情を歌に託したものである。
政治的に恵まれなかった青春時代は多くの女性と、華やかな交遊を続けていた。
万葉集に登場する女性だけでも山口女王(やまぐちのおおきみ)笠女郎(かさのいらつめ)
粟田女娘子(あわたのおとめ)ら十数人いる。
だが、大嬢だけは生涯を通じて、変わりない愛情をそそいだようだ。
大嬢は、家持の叔母坂上郎女の娘で、非常におとなしい、家庭的な女性だったといわれている。