国道二七号線の東市場交差点から県道を明通寺に向かう途中、
四分一と門前の中間あたりの右側尾根に
茶臼山城の跡が残されています。
若狭郡県志には門前城址と記されています。
当時の松永保の地頭は多伊良小太郎という武将です。
多伊良氏は足利幕府の北朝方として、
御醍醐天皇の南朝方とたたかいます。
茶臼山城はこの時代に構築されたと考えられています。
北朝方の多伊良氏の支配する松永は、
建武三年八月に南朝方の猛攻をうけて
焼け野原になったと記録されています。
このとき、多伊良氏の依頼を受けて
明通寺が先勝祈願の祈祷をおこなったことも
明通寺文書に残されています。
この戰以降の多伊良氏の消息は不明です。
おそらく戦死したものと思われます。
この多伊良氏の守り本尊であったといわれているのが、
すり鉢やいとで有名な四分一の法雲寺の延命地蔵尊です。
松永のような小さな地区でも、
歴史の大波に翻ろうされてきたのでしょう。
山頂には地区民の手による標識板が建てられています。
七月の「すり鉢やいと」の機会にでも松永にお越しいただき、
当時の様子を忍んでください。
池河内松永いきいきふるさと塾会長 川畑哲夫