2017年1月発行
坐禅和讃(ざぜんわさん)は白隠仮名法語の代表作であり、
臨済宗の経本に必ず載っているよく知られた和讃であるが、
あるいは読んだことのない人もおられるかと思いご紹介することにした。
この和讃の制作年代は明らかではなく、
若いときの作という説と、晩年の作という説の二つがある。
坐禅和讃は「衆生本来、仏なり」で始まり、
中ほどに 「直に自性(じしょう)を証すれば」とあり、
最後は「此の身即ち仏なり」で終わっている。
よくできた構成だと思う。
「衆生本来仏なり」は大乗仏教の根本を端的に表しているが、
本来というのだからまだ効能書きの段階である。
それが「直に自性を証する」ことで「此の身即ち仏なり」となるのである。
この和讃でいちばん分かりにくいのは「因果一如の門ひらけ」の一節だと思う。
因果というのは原因と結果の法則である。
ものごとはすべて原因があって結果がある。
だから原因を変えれば結果も変わる、
原因を取りのぞけば結果もなくなる、
というのが因果の法則である。
この一節は一切皆空の世界、
一味平等の法身の世界のことをいっている。
因果は差別の世界であるが、
空は因果関係の存在しない無差別の世界である。
だからこそ、積みし無量の罪がほろぶのであり、
悪趣いずくに有ぬべきなのである。
無二無三の道なのであり、
無相の相なのであり、無念の念なのである。
三昧無礙(さんまいむげ)の空が広がるのであり、
寂滅が現前するのである。
坐禅をすれば一切皆空の門が開けてくる。
それが坐禅和讃の主題である。
青井山 瑞雲院