旧町名は語る(二)

2015年6月発行

文政七甲申年三月 一八二四年  第十六図 小浜御城下之絵図
徳川十一代 家齋 酒井十代 忠進

八幡宮の前をまっすぐ海の方へ伸びているのが八幡小路で、

八幡宮の参道である。

今町と風呂小路との辻(現在若狭ふれあいセンターの辻)まで。


 神社前の東側が東宮前町、西側が西宮前町。

東宮前町の海側で堀川から八幡小路に抜ける道が中小路である。

中小路が、南北朝期の文献に名を見る小浜旧町名で、

最も古い例とされている。鍛冶、針田姓の多い鍛冶職の町であったらしく、

針田姓は現存しているようである。


 西宮前町は、元和元年頃(京極忠高時代)には馬場町とよばれたことが

「拾椎雑話」にあり、武田時代の馬場か流鏑馬場であったかと考察されている。


 西へ進むと小浜小学校に突き当たる。

明治十年、空印寺敷地内に設置された協合小学校が、

同二十四年、習長小学校を合併して小浜小学校となるのであるが、

この空印寺敷地あたりが後瀬山城の武田居館跡で、

当時の土塁の一部は現存する。後瀬山城は、

大永二年 (一五二二)武田元光によってつくられ、

同時に西麓にあった日蓮宗長源寺を酒井区の現在地へ移し、

跡地に居館を建てた。空印寺は変遷の後、酒井家菩提寺となり、

明治四年には境内に敦賀県庁が置かれたりした。

空印寺山門前に八百比丘尼入定窟がある。

句誌「ほととぎす」同人 森田 昇