二通の手紙

2018年7月発行

 中学校の級友阿万忠之君に逢った最後は、昭和三十年小浜中学校に建った

円嶺先生の句碑除幕の日ではなかったかと思う。その後忠之君は立派な医者となり、

一時小浜の逓信診察所長をされていたが逢う機会はなかった。東京で開業されたが、

それらのこと、以後のこと総て年賀状で知るほかなくなり、

医師もやめられ京都西ノ京に移られている近況も頂いた賀状により

頭にとめているに過ぎぬ現在である。

 敗戦帰郷した私は、趣味に始めた俳句を、忠之君の父円嶺先生に指導していただいた。

先生ご他界後二十年、そのご業績中の俳句関係を知るべく忠之君に便りをした。

折り返し届いた手紙から関係部分を、以下に纏めようとしてみたのが一通。

その円嶺先生に関わる中学先輩宮田朝央さんの便り一通をとり上げる。

(阿万君の手紙)

 句集「四つ葉」と共にお便りなつかしく拝見しました。

小生も御地を離れてはや十五年になりますが、家族共々元気に医業に専念しております。

 父は、宮崎県宮崎郡清武町大字今泉甲三七〇二番地に生れ、

国学院大に学んだ後、奈良県立工業学校に赴任、

のち旧小浜中学校に転勤。最初は山手の元吉井歯科医院の近くで、

現浜坂家(今あるかどうか)に居をかまえ、次いで西津の現藤田家に転居。

さらに終生の場所になった堀屋敷に移り住みました。

 父は、出生地の宮崎には帰りたがらず、

広大な(といっても五・六百坪ほどの)屋敷

(父祖伝来でオビ藩の国文学又は漢文学者だった家柄)も弟一家にまかせっきりで、

常に小生に山紫水明、山幸、海幸の若狭に骨を埋めるつもりだと話していました。

心から若狭を愛し、土地の人情・風俗に限りない愛着を感じていたように思えます。

戦後の混乱時代自ら教壇を去ったあとの父には、一種の安らぎがみられましたが、

反面誰もが味わった物資窮乏を職がなくなっただけに一層深刻に味わう破目になりました。

多くもない書画骨董の類を、惜しみながら一つ又一つと手放し

食糧に換えるため古びたリュックを担ぎ、ゲートル巻き姿で、

それでも結構たのしげにあちこちしていた姿が浮かんで参ります。

清貧に心安んじ、僅かな甘いものに抹茶をたて客をもてなすのが

何よりの愉しみだったようです。

昭和二十年から五年間、小生は京都に学び、

鈴鹿野風呂先生宅に止宿(一年位)しましたが不肖当時新体詩にかぶれ、

二十三年頃の夏、父と俳句第三芸術論で一夜大いに論争したこともありました。

夏、冬の休暇で帰りますと、座敷の大きな火鉢の傍らに小生を呼び、

古事記、万葉集、論語、漢詩等その時その時で色んな話をきかせてくれたものでしたが、

生意気ざかりの小生は面倒くさそうな顔をして、迷惑がったりしていました。

 今にして思うと、二度と再び学ぶことのできない貴重な勉強であり、

父の小生に対する愛情であったかと、なつかしく、又惜しまれる日々であったのです。

よくわが家にみえられた森田四楼氏、三方五湖に今井長太郎氏らと遊んだこと、

鮎釣りのお伴をしたこと、姉達と初めて郷里宮崎に旅行したこと、

ヤング森先生らと植物採集に行ったこと、山女釣りに行ったこと、

師走の飾りつけをしたこと等、父との思い出は尽きることなく脳裡によみがえって参ります。

二十年も前の父の遺句、遺稿収集の貴兄の温情に何とお礼を申し上げてよいやら、

小生一家は度々の移転等で散逸申し訳なく、ありがたく存じます。

愛する若狭の地に、骨を埋めた父は、皆様のご厚志になる浜中校庭の句碑と共に永遠に、

安らかに眠り続けることと存じます。はや雪のたよりを聞く昨今ですが、

御地の厳しい冬を思いながらご返事、それも大変遅くなりお詫び申し上げる次第です。

  昭和四十五年十一月十六日   阿万忠之

(宮田朝夫さんの手紙)

 (前略)阿万円嶺先生にはまことに懐かしい思い出があります。

小生、昭和二十三年夏、サイゴンから兵隊さんを輸送して長崎に帰り、

横浜ドッグに大修理することとなり、その間帰郷しまして、

持ち帰った黒砂糖を少し持ち先生のお家を訪れました。

大変喜んで下さり、俳句には甘いものが必要なんじゃと云われ、

その後短冊を持ってこられ、

 「水増していさざとれぬ日続きけり」

 「畦ぬるや乏しき水に鍬ぬらし」

最後に

 「雪渓を仰ぎて立てる花野かな」

 人生波乱万丈、心して生きなさい、と教えて下さった。

折から床下を小さな蟹が動くのを見られ、俳句を作れと云われたのには

辟易してお断りしたことであった。先生は更に、

茶の道具、茶碗、匙を持ち出され、これらを持って帰れといわれる。

先生のご好意まことに有難く、三句と共に持ち帰る。

今、机上にまさに六十年振りに手にし、往時を懐かしんでいる次第です。

くどくどとくり言を申し訳なく思います。つい先生の温顔懐かしく、

つい筆をとりました。御多幸、ご活躍を祈りおります。

   昭和十八年八月二十四日    宮田朝夫

句誌「ほととぎす」同人 森田 昇