とりどりの色を尽くしてにほふ哉

2016年11月発行

とりどりの色を尽くしてにほふ哉
       千種の森の秋の紅葉は

 小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれ、

藩校「順造館」に学んだ伴信友は、

国学者本居宣長没後の門人となり、

「天保の国学四大人」と称されましたが、和歌にも堪能でした。

 ここに詠われている千種の森の歴史は古く、

廣嶺神社が鎮座した貞観二年(八六〇)には、

樹齢千年の古木が種々生い茂り人が住めない島状の地形であったことから、

「千種の森」と呼ばれるようになったと伝えられています。

 以来、千種の森はこの地を守る地主神として代々の国主に尊崇されて来ました。

寛永十一年(一六三四)武州川越から若狭へ転封となった酒井忠勝侯は、

廣嶺神社を城下の人びとの生活を守る産土神として、

崇めました。明治維新を迎え境内の古木は伐採され、

今では二千三百平方メートル(七百坪)余りとなりましたが、

当時の面影を多少なりとも窺い知ることが出来ます。

 この絵は、戦後小浜中学校、若狭高校で教鞭を執られた居関金一氏が、

昭和二十三年に「千種の森」を描かれたものです。

小浜市郷土研究会 網本恒治郎