北陸新幹線若狭ルートと福井医科大学誕生秘話

~瓢箪から駒~

北陸新幹線を国の整備計画に盛り込むよう、

陳情活動が本格化していた昭和四十八年十一月。

当時の中川平太夫福井県知事が、東京目白の田中角栄元総理の私邸を訪ねた。

知事に対して田中元総理は、福井県の地図を広げ、

「よっしゃ分ったこれやな」と、赤鉛筆で小浜を通る線を引いた。

若狭ルートが確認された瞬間で、

同月経由地を「小浜付近」とする国の整備計画が決まった。

しかし、知事さん「上越新幹線を先にやらせてもらうので、

暫く待って欲しい。その代わり、医科大学をあげますから」。

当時、国立の医科大学がないのは福井県を含めて数県で、有り難い話であった。

「瓢箪から駒」とはこの事で、

昭和五十五年(一九八〇)開学した福井医科大学(現福井大学医学部と附属病院)は、

今や最先端の医療の研究と実践で名を馳せている。

一方、若狭ルートが決定して半世紀。

ここにきて、沿線から環境への影響に対する懸念の声が聞こえてくるが、

石破内閣の看板政策である「令和の日本列島改造」から考えて

ルートの見直しはあり得ません。

杉本達治福井県知事の、年頭にあたって

「初夢」として語られた小浜先行開業論は、

本県の悲願達成に向けた知事の決意の表れで、

地元としては誠に心強い限りである。  

                                                    若狭の語り部・網本恒治郎