後水尾天皇は、紫衣事件で江戸幕府と対立し早々に皇位を退きますが、
その後四人の子を皇位につけ五〇年余の長きにわたり院政をしきます。
また、自らの秀でた文化的素養は、
朝廷を核とした古典文芸・文化の興隆をもたらし、寛永文化の一翼を担います。
この後水尾院に酒井忠勝は若州宮川産硯を贈り、
院もまたその硯を長く愛用しました。院が八五歳の長寿を全うすると、
天和二年(一六八二)、朝廷は徳川光圀に詔して、
院遺愛の硯に名をつけることを命じます。
光圀は中国宋代の書家米元章(米芾)の『硯史』からとって、
この硯銘を「鳳足」石硯としました。この命名を嘉した朝廷の後西院は
つたえゆく硯の石のよはひもて
世々にのこらむ言の葉そこれ
と詠んで光圀に贈ったとされます。
御銘「鳳足」石硯の始まりです。
後にも先にも御銘は宮川産の硯だけです。
ただ残念なことに、
宮川ではこの頃の若狭地方を襲った大災害で
「山崩埋谷」により、良質の研石が採れなくなってしまいました。
小浜古文書の会 中島嘉文