平成25年度 佐久間艇長遺徳顕彰式典
趣 旨
わが郷土が生んだ佐久間勉艇長は、明治43年4月15日に
山口県新湊沖における第六潜水艇の
半潜航訓練中に殉難された。
その殉難の日に、佐久間艇長の遺徳を偲び、
後世にその人となりを語り継ぐために
顕彰式典を開催する。
本日ここ佐久間艇長生誕の地におきまして、第6潜水艇の指揮官と乗組員たちの任務に対する勇気と献身に英国海軍を代表して敬意を表することができるのは極めて名誉であり、かつ特別なことと思っております。
私は、パイロットであり潜水艦乗りではありませんが、気風や精神はとても似たものがあります。航空従事者も同様に先人の安全対策や経験のおかげをこうむっており、機器や船舶の開発にあたっては命を犠牲にしたこともあります。第6潜水艇の乗組員はまさにその一例であり、彼らの任務に対する勇気と献身に敬意を表するものであります。
海上自衛隊と英国海軍は共通の価値観に基づいた伝統ある長い歴史を受け継いでいます。その緊密な友好関係を強化するため、今年は海上自衛隊と英国海軍船の相互寄港を計画しています。日本と英国は地球の反対側で活動していますが、海軍に従事するものとして
共に第6潜水艇乗組員のような活動を模範としています。
本日第6潜水艇の勇気ある乗組員たちに敬意を表することができ大変光栄でありました。 我々は彼らを忘れてはなりません。
明治時代にあわせ 「ルー」ではなく 「カレー粉」を使い、肉じゃが風に ・・・・
佐久間艇長も 食べたであろう 「生誕地の銀杏」 をトッピング・・・・・・・
おかわり おかわりで 大好評!
佐久間艇長の最後をしのぶ
明治四十三年四月十五日午前九時三十分、
母艦歴山丸を離れたのは、
福井県三方町出身の海軍大尉佐久間勉を艇長とする
国産第一号第六潜水艇である。 乗組員はわずかに十四人。
ハッチを閉める前、艇長は歴山丸に対して手を挙げ、
それにこたえた艦橋の佐藤兵曹が見た艇の最後であった。
時に午前十時、その後青信号途絶え、
歴山丸から海軍省あてに
「沈降せしまま浮出せず」の
電報が発せられたのが午前十一時であった。
その時こそわずか八轟(ひろ)の海底にあって、
必死の浮上作業が続けられていたのである。
「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ラ殺ス、
誠二申訳ナシ”サレド艇員一同死二至ルマデ、
皆ヨクソノ職を守リ沈着ニ事二処セリ」
から始まる悲痛な叫びとも思われる遺書が
書きつづられていたのである。
さらにこの失敗を誤解なく、
将来発展研究に全力を尽くされるよう訴え、
沈没の原因を明細に書き記していた。
艇長の人生わずかに三十年。
その間慈母の死、さらに愛妻の死、そして
今自らが直面する死の世界への無常観がしのばれるのである。
古人は「時は金なり」と言う。
平々凡々いたずらに馬齢を数えたものへの警旬だろうか。
艇長の時は秒針の鼓動であり。命の脈動であった。
艇長の命を支えた時計を佐久間記念会館に拝するたびに、
死してなお時を刻んでいたのであろう崇高な最期がしのばれる。
元三方町佐久間艇長顕彰会会長
小堀源治郎