2013年4月発行
佐久間勉艇長の慈母「松野」は明治三十九年に、
愛妻「次子」は明治四十二年に亡くなりました。
この二人の死は、艇長の死生観に大きな影響をあたえました。
決して裕福ではなかった佐久間家に生まれた艇長は、
父母に孝行したい一心で、勉強し努力して海軍に入りました。
やっと親孝行ができると思っていた矢先に母は病気になり
京都大学病院での看病も虚しく亡くなりました。
その時、恩師成田先生に
「「樹欲静而風不止」是より鴻恩の万一をも
報ぜんと欲せしに、今は在さず。
思い起こす事ども涙の種ならざるは無之候。」
と書き送っています。故郷での三十日祭の夜、
母の写真の裏に
安政弐年拾月弐日生レ
母 松野 明治三十九年九月二十五日永眠ス
享年五十一
噫々
鴻恩畳々
喬嶽ヨリモ重シ
報恩の萬一ヲ盡サズ
今ヤ永訣ス 実ニ之レ断腸ノ嘆
希クハ天ヨ 我ガ慈母ヲ安楽浄土ニ導キ給ヘ
余ハ赤誠ヲ奉ジテ君国ニ盡サン
聊カ以テ餘孝ヲ完ウシ得ベキカ
明治三十九年十月二十八日
孤灯の下ニテ之ヲ認シム 熱涙潜々
次男 勉
と書きつけました。
次子は小浜の糟谷家に生まれ富山で育ちました。
明治四十一年一月三日、平安神宮にて
成田鋼太郎先生媒酌のもとに結婚しました。
艇長の艦隊勤務の合間のわずかな新婚生活の後、
四十二年二月十一日の朝、一子輝子を産み、
午後四時に亡くなりました。艇長は成田先生に
「噫々、先生何と申さんか、実に今回の事、
隻手、否双手を切断されたる感あり・・・
人生の悲嘆何か之に過ぐるものあらむ。
如何に気を丈夫に構うと雖も、
断腸哀悼の情、禁ずる能はず。」
と手紙を書きました。
(列車中の偶感)
友消えて 手荷物軽し独り旅
(亡き人を思ひやり)
独り旅 今日は何処に宿るらん
(山陽道に入、今昔の感に堪へむ)
二人往き 一人帰るの浮世かな
来たる四月十五日の顕彰祭には是非お出でくだ さい。
そして交流会館にもお立ち寄りください。
佐久間艇長伝記編集委員会 小堀 友廣