若狭武田氏家臣、守護雑掌で京都在住の寺井氏は武田家の「書き入れ」
(証文の書き入れを意味するので現在の金融担当)であり、
又、武人であり文芸にも秀でた文化人であった。
室町時代の守護は、戦国時代以前は足利将軍の住居に近い京都屋敷に住んでいた。
このため京都に永く住み、知己の多い武家は守護には都合の良い存在であり雇われ、
京都雑掌又は守護雑掌と呼ばれていた。
武田家に仕えた寺井氏はその智辯を使ってその力を発揮した。
その後、守護が国元へ帰り在国が多くなっても京都との連絡役として活躍した。
寺井氏は武田信賢の時代に仕えたが、次の国信の時代が永く、
一四七八年(文明九年)に若狭に邸宅を持ち、歌人を招待して歌会を催した。
又一四九〇年(延徳二年)西福寺に敷地を寄進するなど若狭との関係を深めていた。
また京都の場所を利用して文芸・芸能の会の開催などで武田家に貢献した。
武田国信が一四九〇年六月に死去すると剃髪し宗功と称した。
その後文芸に優れた元信が後を継ぎ、
在国するようになってからは京都の一流文化人である三条西実隆に
和歌を送り余生は若狭で送っている事が知られる。
一五〇九年(永正六年)三月下旬
寺井入道賢仲
かけふかく のこる老木の山桜 世にも知られす くちやはてなん
返し 三条西実隆
くちすして 花に咲かなん 老木こそ むかしの春の 色香をもしれ
賢仲の若狭の邸宅は不明だが、
口名田上中井の山上に寺井兵部少輔の谷小屋城がありその麓に屋敷があったと伝わる。
一五三七~八年(天文年間)には谷小屋城の南の末野(五十谷村)と
飛川村を寺井左兵衛尉家忠(子息ヵ)が領有した事が解るので、
この頃迄には名田庄に近い南川中流域に本拠があった事が知ることが出来る。
寺井賢仲は一五一五年(永正十二年)に没した。
その後の寺井氏は一五七〇年に朝倉攻めのため熊川に入った信長を
他の国衆と共に迎えに出て、
その後丹羽長秀の下で若狭衆として各地に参戦した。
若狭小浜歴史研究会主宰 福本徹之