福井県誕生こぼれ話

廃藩置県から十年後の明治十四年(一八八一)二月七日に、

現在の福井県が誕生しました。

昭和五十六年(一九八一)の置県百年には、

これを記念して県庁舎が建てられ盛大な式典が行われました。

この式典に臨席された元知事の小幡治和氏から、

置県一周年を祝して旧福井藩主松平慶永(春嶽)が

石黒務初代県令にあてた書簡(明治十五年二月七日付け)を、

県に寄贈されました。

そこには、福井県が誕生し県庁を福井に置くとされたことに

「本日ハ越前旧士民ニ無窮ノ幸福ヲ大政府ヨリ授与サレタル大祝日ナリ」、

その喜びは、「越海ノ深キヨリ、白嶺ノ高サモイカテ及ハサル」

と記されているが、若狭にとって中央政府の決定は

青天の霹靂だったのです。 

むりやり滋賀県から切り離された若狭では、

明治の半ば頃まで復県運動が繰り広げられたが、

母親の背中におんぶされぐずっていた赤ん坊が、

いつの間にか疲れはてて眠ってしまったように、最後は諦めたのです。

石黒県令は若狭と越前の融和を県政最大の課題とし、

県立小浜中学校、同小浜小学師範学校の開校(明治十五年二月)や

県立小浜病院の開設(明治十六年一月)に腐心しました。

両校はその後、国の方針(一県一校制)や越前・若狭の綱引きなどにより

一旦廃止の憂き目に遭いました。

県立小浜病院をルーツとする杉田玄白記念公立小浜病院には、

石黒県令が揮毫した扁額が残されています。

今年は置県百四十年。本県は、幾多の苦難と試練を乗り越え、

育ててきた歴代の県令・知事や先達の大きな遺産のお陰で、

若狭と越前はそれぞれの特色を活かし幸福度日本一を誇っています。

                      若狭の語り部 網本恒治郎