奈良・平安時代の国家は、「律令」という法に基づいて統治しました(律令国家)。
若狭が御食国とされるのは、近江・若狭・紀伊・淡路・志摩の五国が、
毎月「供御(天皇の食物たる珍味)」を伝統的に貢進する特殊な国であったことによります。
関連することとして、農民(公民)は戸に編成されてさまざまな税が課せられていました。
律令による税は、租(米)・庸(布など)・調(特産物)という物で納める税と、
雑徭・仕丁・兵役などの力役に大別されます。
調(特産物)は、律令国家の政府にとって財源の根本でした。
例えば、若狭の成人男子(正丁=二十一~六十歳)の場合、
塩三斗(一斗二升)を食料自弁のうえ国の役人に引率されて、
税として中央政府へ納める義務がありました。(女子の負担は、租のみ)。
ソルト(塩)はサラリーの語源です。
奈良の都平城京では、多くの官人が勤務しており、
若狭ブランドの塩は、天皇家だけでなく下級官人の写経僧などに給料の一部として支給されていたのです。
この時代の製塩遺跡の代表が船岡遺跡(おおい町)で、
量産体制が敷かれていることから、国営工場の体をなしていたようです。
町では、遺跡の横に史料館を建設し、
現地には製塩作業のジオラマや旧炉跡を明示するなどして、遺跡を顕彰しています。
調塩木簡(荷札)には、納税者を示す国郡郷(里)名・年月日などが墨書されています。
若狭国三方郡能登郷 戸主粟田公麻呂戸口
三家人秋麻呂調
塩三斗(現在の一斗二升)
調塩を平城京まで運んだ三家人秋麻呂は、
若狭(旧三方)町能登野集落付近に、千三百年前に住んでいた人です。
藤原京や平城京から出土する木簡によって、
古代若狭の地名やそこに居住していた人物をも復元することができるのです。
地名を守っていく大切さが分かります。
関西大学 講師 博士(文学) 入江文敏