明治四十三年(一九一〇年)四月十五日、
日本国産初の第六号潜水艇は山口県新湊沖において、
半潜航訓練中不測の事故によって沈没しました。
佐久間艇長はじめ十三名の艇員は、
それぞれの部署において最後まで力を尽くし職分を全うしました。
意識がうすれていく中、
艇長は微かな明かりのもとで手帳に
「佐久間艇長遺言」を書きしたためました。
当時、この遺言(遺書)のほぼ前文は
新聞において掲載報道され衆知されることとなりました。
小浜中学校時代の恩師、成田鋼太郎先生は
「これを読みて、予は感極まり泣けり、
今泣くものは、その死を悲しめるにあらざるなり、
その最後の立派なりしに泣けるなり」と書いています。
文豪、夏目漱石は絶大な賛辞を贈り
新聞紙上に評論を発表しています。
また、歌人、与謝野晶子は
「海底の 水の明かりにしたためし 永き別れの ますら男のふみ」
「瓦斯に酔い 息ぐるしくとも 記しておく 沈みし船の司令塔にて」
など十五首の挽歌を発表しています。
加えて、アメリカでは、国会議事堂の大広間に
ワシントンの独立宣言と並んで遺書が原文のままコピーされ
英訳を添えて丁寧に陳列されました。
また、イギリスの潜水学校では大切に保管陳列され、
佐久間艇長は潜水艦の先覚者として今も尊敬されています。
遺書に記された父母を敬い、師の恩を忘れず、
息を引き取る間際においてもなお
部下の家族のことを思いやる優しい人柄は
年月を経ても人の心に響くものがあります。
人間としてのあり方、生き方を学び、
人間佐久間勉の精神を後世に継承したいと願っています。
佐久間艇長研究会会員 石田雄治
【写真提供 小浜市役所広報】