常高院と常高寺 常高院と若狭(一)

豊臣秀吉の妻で秀頼の母となった「淀殿(茶々)」、

若狭小浜藩初代藩主の京極高次の正室「常高院(初)」、

将軍徳川秀忠の正室「江」の三人は、

戦国武将の浅井長政を父に、織田信長の妹「市」を母にもつ姉妹です。

次女の常高院は、慶長二十年(一六一五)の大坂城落城の際に、

姉の淀殿と甥の豊臣秀頼と共に城で果てる覚悟でした。

炎上する城から救出された後は傷心のようでしたが、

しばらくしてから江戸へ移り、

以後は妹の江と徳川家を見守り心配しながら晩年を過ごしました。

常高院は三姉妹の中では最も長生きで、

まさに姉妹の要であり、姉妹の縁を取り持つ立場でありました。

常高院は、生前から「自分の菩提寺である常高寺は、若狭に建てたい」と考えていて、

かねてより開山和尚を決め、伽藍も自ら図面に指図して建立に尽力しました。

その遺志どおりに、常高院の菩提は今でも小浜の常高寺で弔われています。

常高院の一際大きな墓の前には、生前から仕えた侍女たちが、

周囲にはその跡継ぎの尼たちの碑がたくさん並んでいます。

その壮観な光景に、女性たちの主従関係と、

常高院がいかに貴く慕われていたかを感じずにはいられません。

                                                        福井県立若狭歴史博物館学芸員 有馬香織