曙覧のこの歌の意味は、「楽しいのは、冷えてしまった小豆飯を、
お茶漬けにして食べる時であるよ」というのである。
冷えているというのは、いただき物の小豆飯だからであろう。
固くもなっているだろう。
「茶漬けてふ」の「てふ物になして(というものにして)」という表現には、
普通は茶漬けなどしないであろうという、
曙覧のためらいのようなものも感じられる。
私の住んでいる小浜は、鄙びた町ではあるが
「御食の国」として、雅なものへの思いとともに、
食文化も大切に受け継いでいる。代々続いている町家や、
老舗などでは月初めの一日を「おついたち」といって「
小豆飯」を神仏に毎月お供えして、
日々の平穏無事を祈る。そして、そのお下がりは家族がいただく。
我が家では、誕生日、入学式、卒業式等、
祝い事や嬉しいことがあると
必ず赤飯が食卓に出された。
男子祝い事の赤飯は少し固めに、
女子の祝い事には柔らかい赤飯をということも姑から教わった。
百歳近くまで健康であった姑の好物も赤飯だった。
食のすすまなくなった姑のため赤飯を作り勧めた。
一瞬うれしそうにしたが、すぐに「何のお祝いか」と聞いた。
そして、また改めて食文化の大切さを説く姑だった。
下句の「茶漬けてふ物になしてくふ時」には、
作者の人間性を感じるのだ。
何気ない日々の生活の中の細やかな情景を
丁寧に表現しようとする心配りを察する。
橘曙覧研究会 加納暢子