廣嶺神社のルーツ

播磨国広峯山の廣峯神社

   小浜市千種二丁目の廣嶺神社は、

平安時代の貞観二年(八六〇)に播磨国白幣山の廣峯神社から、

大中臣おおなかとみ佐波近重により勧請されたと伝わります。

御祭神は素戔嗚尊 櫛稲田姫命 五男三女御子神で、

御神紋は五つ木瓜です。

現在の佐波近典宮司は三十九代目に当たります。  

 播磨国・廣峯神社は、二千有余年前人々が神の山と崇める

白幣山(広峰山系)の山頂に神籬ひもろぎを建て、

素戔嗚尊すさのおのみこと(牛頭天王ごずてんのう)とその子・五十猛いそたける尊のみことを祀ったのが始まりとされています。

 奈良時代、天平6年(七三四)に社名を廣峯神社と定め、

平安時代の天禄三年(九七二)には

広峰山(現在地)に社殿を造営し遷座しました。

御祭神、御神紋は廣嶺神社と同じで、

全国にある牛頭天王の総本宮として知られています。

牛頭天王は、病気や災難から人々を守る荒神としても名高く、

平安時代に京都で流行った疫病を鎮めるために分祀したのが

祇園社(八坂神社の前身)で、祇園祭の原型と伝えられています。

 千種の廣嶺神社祇園祭も、

「祇園信仰」を取り込んだものと考えられます。

総本宮も古くは「広峰信仰」として、

災厄・疫病を祓う白幣祭が執り行われていました。

若狭の語り部 網本 恒治郎