最近、「御食国若狭(みけつくにわかさ)」という言葉がよく聞かれ、また用いられるようになった。若狭人である私は、嬉しいことと思っている。「御食国」とは、天皇のお食料を献上する国のことである。しかし、若狭を御食国と書いた古い記録は、私の知る限りまったく存在していなかった。
ところが、昭和四五年一月に歴史学者の狩野久先生が、「御食国と膳氏(かしわでし)―志摩と若狭―」と題する論文を発表され、その中で若狭が志摩の国と同様に、古代の御食国であったことを初めて論証し、主張されたのである。
その論文の冒頭には、『万葉集』巻六に出ている大伴家持の歌
御食国志摩の海人(あま)ならし真熊野(まくまの)の
小船(おぶね)に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ
の一首が掲げられており、現在の三重県の一部となっている志摩の国が、他のいくつかの国と共に天皇のお食料を貢進する国として、特殊な地位を占めていたことが詳しく述べられている。そして、若狭も志摩などと共に天皇の供御(くご)(お召し上がりもの)とされる「御贄(みにえ)」を、恒常的にお納めする国として指定されていたこと、すなわち「御食国」であったことを、多くの文献・史料を用い、また平安時代の『延喜式』なども詳しく引用して論述されている。
若狭では、江戸時代の後期に伴信友という近世考証学の泰斗(たいと)(権威)と称される国学者が出ており、若狭の国造(くにのみやつこ)であった膳氏(かしわでうじ)―天皇から「姓(かばね)」を賜って「膳臣(かしわでのおみ)」―について、詳細な研究を続け『若狭旧事考(くじこう)』に発表されていたので、私は狩野先生の論文に殊に深い関心を抱いた。
この『旧事考』には、『日本書紀』の「履中(りちゅう)天皇紀」をはじめ、若狭と関連する歴史の諸書の記録に基づいて、膳臣が天皇に直接お仕えし、食膳のことを管掌したこと、その子孫が永く若狭を領国とするようにと定められたこと等が詳述されている。
なかでも私にとって感に堪えないこととして、『旧事考』に「遠敷(おにゅう)郡瓜生荘に〈膳部(ぜんぶ)山〉といふがあり」といい、「膳部(かしわでべ)に由ある大名(おおな)の地の、もはら(専ら)山名に遺(のこ)れるにもやあらむ。」と記されている。この瓜生荘とは、最近まで若狭の遠敷郡上中町、今は合併して三方上中郡若狭町の内にて、私の在所をも包括する地域であり、膳部山も身近な所にある。狩野先生の論文でも信友のこの指摘に注目され、その近くに「ミヤケ」(三宅)の地名もあることにも、留意されている。そして、さらに大事なことは、この膳部山の西麓の脇袋(わきぶくろ)集落には、大正五年に発掘された「西塚古墳」をはじめ、若狭で最大を誇る前方後円墳の「上ノ塚(じょうのづか)古墳」等の古墳群が存在することである。若狭の中でも最も多くの古墳を擁すると思われるこの旧上中町一帯こそが、その昔の膳臣の本拠地であったろうとの思いが、近年その調査の進行と共に益々深くなっている。もっとも、国の中央に活躍する膳氏と、若狭地方に根拠地を置く膳氏の関係については、研究者・学者によって様々な見解があるようであるが。なお、『日本書紀』などにも、膳氏の名前が幾回か見えているが、天皇の食膳に仕えるだけでなく、軍事や外交にも活躍した氏族であったことが知られる。
(郷土史家 永江秀雄)