薄倖の歌人大田垣蓮月のことなど

2016年11月発行

薄倖の歌人・詩人・俳人シリーズ其の弐
   「薄倖の歌人大田垣蓮月のことなど」

薄倖の歌人・詩人・俳人シリーズ其の弐

「薄倖の歌人大田垣蓮月のことなど」

大田垣蓮月こと俗名・誠(のぶ)は、

江戸時代末期の寛政三年(1791)正月八日に生まれ、

明治八年(1875)十二月十日に八十四歳で亡くなっている。

その人生は、肉親の縁が極端に薄い人であったといえよう。

蓮月は京都の花街であった三本木(今の河原町通丸太町東入ル)で

生まれるが、生後十日目にして、

知恩院門跡坊官の大田垣光古(てるひさ)の養女となった。

その光古の養子望古(もちひさ)と結婚して一男二女を儲けるが、

いずれもが幼くして亡くなり、

素行が悪いためやむなく離婚した夫もすぐに亡くなり、

その後、大田垣家の養子となった古肥(ひさとし)と再婚して、

二児(一女とも)を儲けるが古肥も病没し、

誠は佛門(剃髪「薙下げ」して、蓮月と名乗る)に入るが、

やがて子供達にも先立たれる。

九年後、蓮月四十二歳にして養父の光古が亡くなると、

とうとう彼女は天涯孤独の身になってしまう。

蓮月の子は四人とも五人とも言われるが、

十五歳のころ蓮月の侍童をしていた富岡鉄斎によると

子は六人であったという。

蓮月は生きるために、岡崎にて埴細工(陶器)を始める。

急須、徳利、杯、碗、皿などに釘で彫り付けた自作の和歌が評判を呼び、

飛ぶように売れた

(「手遊(てすさ)びの儚き物を持ち出でて うるまの市に立つぞ侘しき」)。

それは、ひとえに蓮月の美貌と優れた和歌の故であったと言われる。

あまりの美貌ゆえに言い寄る男が後を絶たないため、

蓮月が自ら眉を抜き、歯を抜いて老婆を演じたと言う話も伝わっている。

また、西郷隆盛に二首の和歌を示し

(「討つ人も討たるゝ人も心せよ 同じ御国の御民ならずや」

「あだ味方勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」)、

戦いを翻意させたという伝説的な話もよく知られるところである。

蓮月を有名にしたのは次の和歌である。

宿(やど)貸さぬ人の辛さを情(なさ)けにて 朧月夜(おぼろづくよ)の花の下臥(したぶ)し

この和歌は、「無私の人」と称された蓮月の人となりを

端的に表していると言ってよい。

「蓮月焼」が評判になるにつれて大金を稼ぐようになるが、

その金を惜しげもなく橋の架け替えなどに寄付している。

また、何一つ要らぬものを持たない蓮月は、

来客が来ると自身は木の葉に盛って食していたという。

家に余りに多くの人が押しかけて来るので、

数十回も引っ越しをしているところから、

「屋越し蓮月」と揶揄される程であった。

しかし、愛する人達の墓参のため、

岡崎近辺から離れることは生涯決して無かった。

晩年は、自身の棺桶を用意していたが、

棺桶を買えぬ貧しい村人が亡くなると 、

その棺桶を次々と譲っていたため、

いくつ作ったかもわからぬ程であったという。

そのような彼女の晩年の和歌は、

諦観の滲み出た清らかな魂の叫びそのものであった。

塵ほどの心にかゝる雲もなし 今日を限りの夕暮れの空

  願はくはのちの蓮(はちす)の花の上に 曇らぬ月を見るよしもがな

(蓮月を詠み込んでいる)

国立舞鶴高専人文科学科 名誉教授

文学博士 村上 美登志