京都詩仙堂と玄白・雲浜

梅田雲浜は、嘉永五年(一八五二)、

小浜藩士籍を剥奪され、

住居を高雄山から石川丈山閑居の地・一乗寺村に移します。

その時の門弟行方兄弟に宛てた書状で、

「丈山は大坂夏の陣での抜駆けで、私は直言で放たれた」

と親近感を吐露しています。

 雲浜同様、石川丈山を深く敬愛した杉田玄白も、

古希を迎え、「養生七不可」を上梓して孫子や知友に贈りますが、

「小詩仙堂翁主著」としています。

小詩仙堂は玄白の別号でもありましたが、

別宅にも小詩仙堂と名づけるほどの心酔ぶりでした。

 小浜藩の二人が、期せずして

石川丈山とその五八歳から閑居した詩仙堂に

深い敬愛の念を抱いていましたが、

そこには「節を通す」という藩学崎門学の影響もあるようです。

なお、丈山は九〇歳、玄白は八五歳の長寿でもありました。

                                                      小浜古文書の会員 中島嘉文